先日、お世話になっている秋田のHOさんよりお電話を頂き、鉄道界の大御所、星晃氏が93歳でご逝去されたことをお聞きしました。星氏の経歴はここで改めてご紹介するまでもありませんが、10系客車や151系電車など数多くの車両を設計された技術者です。
秋田のHOさんは鉄道友の会を通じて星氏にお会いになる機会を持てそうとお聞きしていただけに、突然お亡くなりになられたことで永遠にその機会を逸してしまい非常に残念がっておりました。
マイテ病患者(アッキーさん、秋田のHOさん、私)の3人はマイテ3911に関しての謎解きを常日頃念頭に置いておりまして、出来ることなら有識者にお会いして謎を解明し白日のもとに晒したいと願っていました。星氏は戦後のマイテ39の改造にも携わられていたらしいので残念です。
何か資料はないものかと思い、先日古本サイトを探していたところ、「星さんの鉄道むかしばなし」と云う本があったので早速手に入れました。 その文中でマイテ39改造の件を発見しました。

質問者に答える形で星氏がマイテ改造の事を述べてますが、質問の仕方が今一突っ込みが足らず、我々が知りたいことが記されてないのが残念です。但し、次の2点がこの質疑応答ではっきりしました。
① マイテ391、マイテ392 共に機銃掃射を受けたこと。これにより、戦後の改造でマイテ391は桃山式 の部材をマイテ392に譲り洋風展望室にしたこと。(マイテ392は改造後マイテ3911に番号変更)
② 機銃掃射を受けた=この2両は上野の山には収納されなかったこと
①、②の2点が解明されただけでもこの本を購入した甲斐がありました。
マイテ3911の露台(展望デッキ)が他の展望車の露台と形が違うのは、空襲で破損したので大井工場に有った部材を使って修理したためと云うのが定説になってます。まあ、こんな細かいことはどうでも良いことですが、
マイテ病患者にとってはどうでもよいことではなく、事細かに明らかにしたいことです。
この他にも私が博物館オープンの際に岸学芸員よりお聞きしたマイテ3911の空襲の傷跡は現存しているはずなので是非一度見てみたいものと思ってます。
星氏ご逝去を切っ掛けに、また鉄道史探求の血が騒いできました。当面は寒いので撮り鉄に出かけられません。
楽器演奏の傍ら、書籍購入で真実を一つ一つ解明したくなって来ました。
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- 2012/12/27(木) 16:00:06|
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昨日は好天に恵まれ気温も高かったので散策がてら東京駅を見てきました。前回訪問時は完成2日前で工事中のフェンスや記念式典のテントなどがあって全体がよく見えませんでした。
完成から2ヶ月近くたってますが相変わらず見学者は多くものすごい数です。今回は丸ビルには登らず地上から撮影してみました。

コンデジでの撮影で広角レンズではないので両端が切れているのはご容赦下さい。お詫びにコンデジのパノラマ機能で撮影したものをリンクします。
東京駅全景 さて、東京駅を見ると言っても全景は外部からですが、内部をよく見るにはステーションホテルを利用するしか有りません。そのうち、高い拝観料を支払ってレストランで食事をするか、もしくは家から近いので少々馬鹿らしいかもしれませんが是非一度宿泊を試みてみたいとは思ってます。
しかし、よく考えてみたら、新規オープン前にも「ステーションギャラリー」というのが存在していたので、今回もあるだろうと探したところ有料ですが有りました。
画像は丸の内北口側のドーム天井。素晴らしい作りに目を奪われます。


その北口の一角にステーションギャラリーの入り口が有りました。500円の入場料を払いエレベーターで3階に上がります。撮影禁止なので画像はありませんが、いきなりプラレールの線路が目に飛び込んで来ました。
説明のしようがないのですが、どうやらプラレールの線路を利用した芸術作品のようです。このような部屋が幾つか有りましたが、何れも前衛的芸術らしく、私のような凡人にはとても理解できるものでは有りません。小耳にはさみましたが、私のような鉄と思われる方が「なんだ~ 美術館か? 鉄とは関係ないね~」と呟いてました。
確かにギャラリーなので芸術作品が展示されていても可笑しくはありませんが、場所が場所だけに東京駅の歴史が分かるようなものの展示を期待して行かれた方はがっかりすると思います。

そそくさと見学を終え、撮影可能な場所で数枚写しました。先ほど下から見上げた回廊はギャラリーの廊下でした。ここから行き交う旅人を見下ろすのもオツなものですが、できればその上のホテルの窓からも一度見下ろしてみたいですね。完全に隔絶されたホテルの一室から俗世間を見る。なんと贅沢なことか。
- 2012/12/17(月) 15:25:52|
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はや12月、師走に入りました。11月は入院騒ぎですっかり体調を崩してしまい、本業?の撮り鉄はおろか、副業?の音楽演奏もろくに出来ずに終わってしまいました。一日も早く体調をもとに戻し、本業・副業共に復帰したいと思います。
こんな按配なのでご紹介する鉄ネタは錆び付いており古いものばかりとなります。いっそのことと思い、今日は古いついでに昔懐かしい音楽ネタを披露いたします。
元首相の近衛文麿の異母弟の近衛秀麿をご存じの方も多いと思います。この方、日本のプロオケの草分け的存在です。ウィキペディアはあまり好きではないのですが、興味のある方はご覧頂ければと思います。
(近衛秀麿) 古き良き思い出というよりは40年以上も前に聞いた演奏が心に残っているということは、自分にとってクラシック音楽に傾倒したのはこの演奏会を聞いてからのような気がします。
近衛秀麿は指揮者であり作曲家です。名前は知ってましたが、演奏会が終わるまではこれほど偉大な人物とは知りませんでした。演奏記録はネットでググってわかったのですが、当日は下記のプログラムでした。
昭和45年5月15日
読売日本交響楽団 市民のための名曲鑑賞会 横浜文化体育館
ベートーヴェン:「エグモント」序曲 op.84
ベートーヴェン:Sym.6 へ長調 op.68
ベートーヴェン:Sym.5 ハ短調 op.67
演奏会場が音響的には最悪な体育館、しかも運命は指揮者編曲の4管編成でした。ただでさえ迫力のある運命交響曲、当時は男性団員ばかりで力のあった読売日本交響楽団による4管編成での演奏には度肝を抜かれました。
当時の細かい演奏技術は覚えてませんが、体育館に響き渡る大音響はさながらライブハウスでのロックコンサート(聞いたことはないですが)のよう。この迫力に打たれました。この運命を聴いた日が私が音楽に引きこまれて行った記念日だったかもしれません。
しかしながら、近衛秀麿の音楽的評価はそれほど高くはないので、当時の録音を今聞いてみたらそれほどの感動はないでしょう。しかし、私の人生に大きく影響した近衛秀麿の演奏は生涯忘れることが出来ません。
2年前に楽器演奏が復活しましたが、それ以来頻繁にコンサートに通うようになりました。良い演奏、大したことのない演奏。いろいろ聞いてますが、プロでもアマでも共通して言えることは技術より心だと思います。いくら技術的に巧くても心がこもってない演奏には感動しません。技術的に下手なアマでも渾身の力を込めて演奏する姿には聴手の心を動かすものがあります。42年前の近衛秀麿率いる読売日本交響楽団の演奏は渾身の力を込めて演奏されたものと思います。そうでなければ半世紀近くも前の演奏など誰も覚えてはいません。
添付画像は若き日の近衛秀麿 ウィキペディアより
- 2012/12/03(月) 17:21:37|
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